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2007年05月14日(月)更新

リサイクルメッセンジャバッグ

FREITAGという会社をご存知だろうか?

もし知らなくても、彼らの製品は目にしている人も多いのでは
ないだろうか?

スイス発の、オリジナルバッグブランドで、防水性に優れたト
ラックの幌をバッグの生地に、ベルトやストラップは廃車となっ
た車のシートベルトを使用するなど、バッグの殆どの部位がリ
サイクルされた素材で作られているというものだ。
また、上記のような理由により、商品それぞれが世界に一つ
しかないデザインになる。
(はてなダイアリー参照)
http://www.freitag.ch/japan/

WEBはフレームバリバリであまりほめられたものではないが
グローバルな展開を行っているので日本語のサイトもできてい
る。

商品の魅力はこちら。
http://bv-bb.net/lapita/mono/008.html

スニーカーブランドのコンバース(現在ブランドはナイキに買収
された)などは、わざわざこのフライタグ風のデザインのバッグ
まで出している(もちろんリサイクルではない)

そうしたら、とうとう日本でもオリジナルで同様のコンセプトのバ
ッグを作る会社(テント屋さんだ!)が現れた。

戦前からテント関連を手広く展開してきた太陽工業株式会社だ。
http://www.maktank.com/index.html

こちらももちろん1点ものだが、小ぶりの3WAYバッグは以下に
リストがある。
http://www.maktank.com/3way/lineup.html

本家に負けず劣らず、なかなか素敵なデザインだ。

メッセンジャーバッグのほうは現在仕込み中で5月31日の午後
12時より販売開始だそうだ。

本当なら教えたくない情報だけど、、、。
5月生まれの私にぴったりのプレゼントにもなる(ひとりごと)。

まだ始まったばかりだから競って買うものでもないと思うが、売れ
行きがよければきっと継続的にコレクションも増えていくだろう。

2007年05月11日(金)更新

謎の中国人(大失礼)

ちょっとした放談会の集まりで立ち寄った赤坂の事務所にその人はいた。

入り口のテーブルでなにやら小さなビーズを選っている。
僕たちの会話には関わらないようだ。。。

一度座が開いて、会食ということになりお店に移動するとその人もついて
きた。
主宰者に紹介されたその人は今何をやっているかというと、奈良にあると
っても有名な宮内庁管轄の博物館に所蔵されている古い楽器のレストア
(修理)をされていて、しかも、その楽器を使ったコンサートなどを開いてい
る中国の古楽の音楽家・研究家だそうだ。
そもそもその時代の楽器は中国から来たもので、日本に修理できる人は
いないわけだ。
それで、この方は1980年から宮内庁の嘱託で日本に来て、古楽器復元
をされているのだそうだ。

宮内庁が海外の人を所有物に関わらせるのもとっても珍しいことだそうで、
それだけでも彼の実力が思い知らされる。

ただ、このときはこの方がどんな方かも良く知らず、僕らは一緒に鰆の西京
漬けをつつきながら、「整形してまでおっぱいを大きくしたがる女性がいるの
はどうしてか?」というような話題を(女性参加者中心に)していたのだが。。。

さて、冒頭でこの中国の音楽家の方がいじっていたビーズは何かというと
その古楽器のインレイ(象嵌)ではめ込むためのルビー片だったのだ!

まあ、この博物館の持ち主に中国から献上されたようなものですから、それ
はそれは豪華な細工が施されていたのだろう。

で、うちに帰って色々と調べてみたら、この方、劉宏軍さんとおっしゃって、
なんとあの坂本龍一さんと一緒に「ラストエンペラー」の作曲をされたとか。

「天平楽府」としてCDやコンサートも開催している。

インタビュー。
http://www.lifence.ac.jp/goto/weblifence/inta/inta8.html

よみがえったシルクロードの音色:正倉院の渡来楽器の復元
http://www.lifence.ac.jp/goto/weblifence/silk/silkindex.html

あーびっくりした。
まったくの偶然ですが、風貌が前述のサラリーマン時代の私の上司に似ていて、
とても親近感を覚えた。

今度CDを探してみよう。(ブックオフには、、、ないだろうなあ。)

2007年05月09日(水)更新

忘れられない、愛車への思い(3代話):その3

男の子なら動くもの、特に乗り物に興味を覚えるのは当たり前かもしれない。
自転車に明け暮れた中学、高校、そしてバイク一辺倒だった大学時代。

美大で工業デザインを志していた(実際はほとんど勉強せず、バイクの改造と
ロックバンドに精を出していた)私も就職活動時期を向かえ、やはり「乗り物」
のデザインがやりたい、と先輩が毎年入社している自動車会社の面接を受け
た。
夏休みに、横須賀にあるその会社に実技の面接を受けに行くと3時間で自転
車のパース(斜めから見た立体図)を実物を見ないで鉛筆デッサンせよ、とい
うものだった。
当然自転車少年だった自分には苦もない課題。1時間程度で仕上げ、途中で
見に来た部長さんも「あっ君、もう描けるの判ったからもう帰って良いよ、じゃあ
あとは秋に人事面接受けて、卒業制作がんばって春に会おうね」と事実上の
内定をくださった。
ところが秋の人事面接官はなにやら他人行儀。他の応募者と違い、私はすで
に内定が出ているから事務的なのかと思ったら、翌週とどいた通知はなんと、
「不採用」。
あわてて先輩に電話をすると「ああごめん。ウチの会社は興信所調査するんだ」
とのこと。ちょっとだけ(当人比)音の大きめなバイクで夜中にアパートの出入り
していたのだが、やはり近所の印象は良くなかったのだと反省。
教授にもこっぴどく叱られた。まあ、悔やんでも仕方がない。

教授からは、もう僕の推薦枠は残っていないので、そこに来ているDMの中で
受けたいところがあれば武士の情けでもう一度だけ推薦状は書いてあげる、と
言われ、手に取ったのが最初の会社、日本テキサス・インスツルメンツの募集
書類だった。

前回のことがあるので面接はとても緊張したが、結果はすぐに出て「採用」との
こと。

はたして年度が改まって晴れて入社した私に待ち構えていたもの、それは「試
練」だった。
この会社のデザイン室は、各社から有能な人を引き抜いて作られた、いわば「
レアル・マドリッド」のようなチームだったのだ。

そこにひょこっと、何も仕事ができない新卒が入ったものだから、まったく使えな
いわ、トレーニングするにしても基礎ができていない。
相当手を焼かせてしまったばかりか、私自身もあまりにも仕事ができないことを
実感し、軽い心身症になりかけた。(おかげでタバコが吸えなくなって禁煙の機
会になった)

このデザイン室では、主にアメリカ、ヨーロッパ向けの電卓や教育機器のデザイ
ンを行っていたのだが、なにせ形や色、インターフェイスへのこだわりが半端で
ない。
その秘密は何か?というと、私を採用してくれたデザイン室長(マネージャー)の
根岸秀孝さんが、元々いすゞのカーデザイナーで、初代ジェミニのデザイナーだ
ったのだ。これはいすゞとしてもはじめてのワールドコンセプトカープロジェクトで
それだけでなく根岸さんは当時いすゞから初めてアートセンター、GMに出向した
方だったのだ。

こんな方の下で仕事ができるのはとても光栄なことだったが、なにせディテール
が細かい。
当時よく言われたことは、
「どのようなデザインをしたら競合他社が真似するか考えよ」というものだった。
(要するにトレンドセッターになれということ)
設計図面の情報量はとても電卓のものとは思えず、色のダメ出しもしつこく、モ
デラーや量産工場泣かせだった。

私自身は周囲との実力差を認識しつつも、この会社で自分が役に立つために
どうあればよいのか、その解を見つけるのに10年近くかかった。
リストラが一般的な現代では考えられない。のんびりした時代に助けられた。
今、私がこうしてあるのは、ひとえに根岸さんをはじめとする先輩の「がまん」の
賜物だと思うと本当に頭が上がらない。

しかも、大学の同級生やデザイナーの集まりに参加すると、根岸さんの元で働い
ているというだけで、やたらと羨ましがられることが少なくなかった。
しかし当時の私にはその意味がいまいち理解できず、判明したのはかなり後に
なってから。
たとえば、私にさかのぼること10余年、根岸さんにあこがれて「いすゞ」のデザ
イン室に入ったのが、現ニッサン日産自動車常務執行役員でチーフクリエイティ
ブオフィサーの中村 史郎さんだったのだ。
彼もWEBで根岸さんとの邂逅について触れていた。

http://www.rikuryo.or.jp/home/people/shiro2.html

中村さんはニッサンのCMに出るなど、「ニッサンデザイン」の重要性を説いて
一躍有名になったが、「根岸チルドレン」として多少なりとも同じDNAが流れて
いるかと思うと本当に誇りに感じる。

ニッサンとの縁はこれにとどまらず、後日また不思議な形で結実した。

数年前、ある女性コミュニティサイトのプロデュースの仕事でニッサンデザイン部
を訪問する機会をいただいた。
厳重なセキュリティを幾重にも通過して、やっとお会いできたのは、ティアナの
プロダクトチーフデザイナー、中島敬さんだった。
http://www.ewoman.co.jp/kuruma/people/NakajimaTakashi/01.html

ワンボックスやRVが隆盛の中、ティアナはニッサンとしても久しぶりのセダン企
画。難しい注文ばかりの企画を、「ドライバーの居住空間から考え直す」というユ
ニークなアプローチで見事成功させた方なのだ。

インタビューでも「デザイナーの仕事そのものが変化し、とてつもなく広範に広が
ってきている」というコメントに、今でも強烈な印象を覚えている。

「日本のクルマは品質は良いけど感応性が低い」などとよく言われてきたが、この
10年で明らかに変化してきているのではないだろうか?
父の時代「特別なもの」だったクルマが「生活の一部」となったとき、何が求めら
れるのか?最近のニッサン車は企業の「顔」も見えるようになってきた。とりもなお
さず、「売れるクルマ」とは、その企業なりの「解」を持ったクルマなのだと思う。

来週の週末、いよいよ試乗の機会をいただく。
そんなことを考えながら、DNAの根っこがどこかにないか、探ってみるつもりだ。

2007年05月08日(火)更新

忘れられない、愛車への思い(3代話):その2

物心が付いた頃、というのはいつごろだろうか?
私の場合、それは3歳ごろ。間違いなく、ガレージの中だった。

とにかく「道具」が好きでなにやら道具がごちゃごちゃと置いてあって
油くさく薄暗い、実家のガレージが大好きだった。
祖父が昔工作機械系の商売をやっていたこともあり、米屋が配達で
使うような頑丈な自転車やらなにやら、いっぱいあったのだ。

兄はそこで戸板の下につかう滑車を端材の下にネジ止めし、スケート
ボードのようなものを自作していた。
それは近所でヒーローだったに違いない。憧れの兄だった。
兄が飽きた頃に遊ばせてもらって、とてもうれしかった。ある意味それが
私にとっては「初めて乗った4輪車」に違いはなかったのだ。
そんなわけで車庫ガキとなって最初に手に取ったお気に入りの工具は
底をペコペコ押すオイルディスペンサーと、プラスのねじ回しだった。
正直、幼稚園児の私にはこの2つがあれば何でもできるような気が
したのだ。

当時の車はテールランプやサイドマーカーなど、ほとんどの部品が
ビスで外付けだったので、「この2つで自動車はどこまで分解できる
のか」という野望を時々実現しそうになってはこっぴどく叱られたものだ。
(たいがい計画実行前に発覚し尻を叩かれた)

私が生まれた頃、祖父の商用車以外に初めて父が自分で買った
自家用車が初代のコロナ。そして私の意識にあるのが3年後に買い
換えた2代目のニューコロナ1500DXだ。
とてもスマートなデザインだったのを覚えている。

思えば家業とサラリーマンとしての仕事の板ばさみで、酒も飲まない
父の唯一の道楽がクルマだったのだろう。
このあと3代目を乗り継いだ後、コロナは急激にスポーツ志向になった。
ハードトップ、イーグルマスクと家のクルマも替わっていった。
思えば(クルマに関しては)ずっとコロナかマークII一辺倒で、あまり
浮気をしない父だったようだ。

http://blog.so-net.ne.jp/hide-g/2005-10-30-1

当時はまだ道もそんなに渋滞しなかったせいか、横浜の実家から「ド
ライブ」と称してよく大磯のロングビーチ(これも出来たて)に連れて行
ってもらった。
助手席を得た私は3角窓を開けて風の具合を操作するのが好きだった
のを強烈に覚えている。

父は高度成長期を生きた人なのでまさに典型的、「いつかはクラウン」
を地で行ったカーライフだ。
今は年でさすがに運転はあきらめたが、20数年前に私が大学を卒業
するころ、「そろそろ同居する兄の子供など、家族も増えたしワゴンか
ワンボックスにしないか?」
と相談したところ、

「ワゴンみたいな形のクルマでゴルフ場に行くのは恥ずかしい」
という答が帰ってきた。
結果、いまでも白いクラウンが実家の車庫に居座っている。

そんなわけで私自身は生い立ちから自分の現在に至るまで「スポーツ
カー」と呼ばれる類の車にまったく縁がないのだ。

「スポーツ(という名のスリル)」は、ほとんど20代・30代で乗り継いだ
数台のオートバイでやりきった。(決して暴○族ではありません)
そういう意味ではクルマにそれを引き継がなかったのは奇跡的だが、
ちょうど転職、独立、出産と言う不安定な時期にこれ以上リスクを増や
すことは出来なかったという事情もあってクルマは家内優先にしたのだ。

今でも、正直なことを言えばもう一度バイクに乗りたい、いや、乗る具体
的なイメージは出来ているのだが、クルマに関してはスポーツカーの原
体験を持っていない自分にとって「スポーツカーに乗りたい」というイメー
ジがいまいち湧かない、というのが現実なのだ。

さて今回、スカイライン試乗の機会は、そんなわけでまさに千載一遇の
機会。
これによってどんなイメージが自分の中に湧くのかが楽しみだ。

ボルボやコロナの話ばかりでニッサンの話題がないのは、いかがなもの
か?
いやいや、実はこれについても奇異な経験があるのでその話はまた明日。

2007年05月07日(月)更新

忘れられない、愛車への思い(3代話):その1

忘れられない、愛車への思い(3代話):その1

自分の車を持ったのは30半ば。本社がつくばにある会社に転職し
たころだ。私自身は東京勤務だったが上司がつくばにいるため、週
に1、2回は早朝につくばまで車で通勤していた。

中古車を乗り継いで家族を持って新車、という人も多いだろうが、私
はそれまでずっと2輪に乗っていたため、自動車に対してはすこし斜
に構えたところがあった。

バイクは思いっきり趣味に走ったが車で同じことをするつもりはなか
った。しかし、あまり一般的な車はイヤ。しかも手のかかる欧州美女
のような車もマッシブなアメリカ車もちょっと。しかも住んでいるところ
は一方通行や細い路地の多い世田谷のはずれ。。さらに平日メイン
に使うのは免許取立ての家内。

こんな状況で初めて選んだのは初期型のオペルヴィータハッチバッ
クだった。

http://kuruma-guide.jp/vita/1995/index.html
コンパクトでありながら剛性の高いボディ。それは度重なるつくば往
復で常磐道を高速走行しながら実感した。

右ハンドル化の影響でペダルレイアウトが悪かったり、アクセルのレ
スポンスが悪いなどの弊害もあったが、総じて満足度は高かった。

日本の小型車は、「こんなところにも小物入れ」というような「痒いとこ
ろに手が届く」アイディアは秀逸だが、ヨーロッパの小型車は基本的
なところが良くできている。
たとえばヴィータはリアシートの下に燃料タンクを持ってきているため、
リアシートが少し高め。その結果着座姿勢がたち気味だがその分頭
上空間があるため狭さを感じないのだ。
しかも重量バランスが中央に集まり、安定性も良い。
ただ、当然ベビーシートの位置の高目となるため、成長した子供の足
が運転席のヘッドレストを蹴るという状況になり、「そろそろかな」とい
う判断で5年乗って下取りに出した。

子供ができたので荷物が増え、次の車も当然ハッチかワゴンとなった。
家内が優先的に使うことを考えると、やはりあまりアグレッシブな車は
NG。
選考対象になったのは
1.フォード・フォーカス
2.オペル・アストラワゴン
3.スバル・レガシィ
4.ニッサン・ステージア
5.ボルボV40

あたりだった。

パッケージ的にはフォーカスに惹かれるものがあったのだが、いかん
せん内装が個性的過ぎて受け入れがたかった。
レガシィもパッケージは使いやすそうだったのだが、内装とエンジンの
味付けが「男の子の世界」が強すぎる。

結局、試乗してエンジンフィーリングが一番穏やかだったボルボに決
定。もうひとつの理由はバックヴューのデザインが優れていたことだっ
た。
http://catalogue.carview.co.jp/VOLVO/V40/2002/overview.asp

ボルボと言うと「安全神話」で、構造的にもたしかにぶっといドアサイド
ビームが入っていたりするのだが、「運転していてあまり飛ばす気に
ならない」というのが安全に寄与する最大の理由ではないだろうか?

初代のヴィータに対し、車格も大きくなったのだが、見切りが良いせい
か家内もボディをこすることがほとんどなくなった。
ちょうど3年乗った頃、全面的なモデルチェンジがあり、ディーラーの勧
めで現在のV50に乗り継いだ。
http://www.kunisawa.net/kuni/menu/kokusan/other/volvov50/volvov50.html


エンジンが上のクラスのV70と同じ2.4、しかし車体は新設計で軽い。
家族も一人増えたが、ぴったりサイズで重宝している。

わたしの周りには、ロータスヨーロッパやスーパーセブン、アルファの
ジュニアザガート、など、個性的な車を乗り回す友人が多いので、到
底エンスーな話では叶わないが、今回、ニッサンさんとのご縁で新型
のスカイラインの試乗の機会をいただいたので、車への思いを語って
みた。
今回は私自身の思い。次回は父の思い。そして3回目はニッサンへの
思いを語って試乗につなげてみたいと思う。
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会社概要

1999年2月創業。 ビジネスにおけるインターネット活用経験は日本のインターネットの発展の変遷とほぼ同期しており、豊富な経験を有する。 主宰者は企業広報から自己啓発でWEBマスターになった経験から、今後オンラインを中心とした企業コミュニケーションが重要になるとの思いで独立、創業した。...

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個人プロフィール

美術大学デザイン科を卒業後、12年間工業デザイナーを勤める。当時勤めていた外資系メーカーで本社出張を重ねるうち、本社の親組織で行っている「コーポレートコミュニケーション」の役割と重要性に魅了され、セルフリストラして広報部に社内転職。自ら部門を超越した「コーポレートコミュニケーション」を実践する...

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