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2006年09月07日(木)更新

企業コミュニケーションにおけるビジュアルの重要性

ひょんなことで防衛庁航空自衛隊の方と知り合いになりました。
今度、入間基地で行われる自衛隊のCH-47JヘリコプターやC-1
輸送機の試乗会に誘っていただきました。
(CH-47は燃費リッター200メートルだそうです)
10月に行われるので今から楽しみです。

で、なにが関心したか、というと航空自衛隊入間基地のWEBサイト。
航空自衛隊入間基地
http://www.dii.jda.go.jp/asdf/cacw/index.html


いろいろな場面で働いている人たち(自衛官)を紹介しているのですが
ここで使われている写真がとてもすばらしい。
自衛隊は、一般企業ではありませんが、思わず、入隊したくなるような
ドラマチックなものがたくさんあります。
官公庁関連の中でも出色の出来です。
WEBの場合、写真やビジュアルのアートディレクションまできちんと
気を使っていない企業が多いので、写真ひとつでこれだけ差がつく
という見本になるのではないでしょうか。

海外ではビジネスの現場やそこで働く人、経営者などをどうドラマチッ
クに見せるか、ということに腐心します。
写真にも「コーポレートフォトグラフィー」とか「インダストリアルフォトグラ
フィー」というジャンルがあるぐらいです。

いったいどんなもの?というよい例が、雑誌の「Business Week」です。
ここで扱われている写真は、まさに上記のようなカテゴリーの王道を
行くものです。

私自身は長年この雑誌の写真を切抜きでスクラップブックに集めており、
企業コミュニケーションでビジュアルが必要になるときに参考にしてい
ます。

私はプロのカメラマンではないので、具体的にどんなレンズでどう撮影
してくれ、とは指示できませんが、スクラップブックを見ながら、こんな
雰囲気で撮影するにはどうしたらよいですか?というように相談すると
実現しやすくなります。

ご興味があればぜひオフィスにスクラップブックを見に来てください。
もちろんそういうアドヴァイス込みでアートディレクションをとることも可能
です。弊社ではこのような観点に長けたカメラマンとのコネクションも
あります。

2006年08月25日(金)更新

奇異なキャリア(その4)

私が日本テキサス・インスツルメンツで人事採用のホームページを立ち上げたとき、
会社全体のWEBサイトもありませんでしたし、実は米国本社(www.ti.com)も立ち
上がっていませんでした。

このプロジェクトは人事本部長の了解のもとでスタートしたので、社長はおろか、
取締役の方々の認知もありませんでした。
社長は、外部の会合やレセプションで
「あんたの会社はさすが、進んでいるねえ」
と言われてはじめて気がついた、というような状況でした。

当時は、社長や取締役が
「雨宮君、いったい何やったんだ。そのインターネットって奴を見せてくれ」
といってよく私の机を訪問してくださいました。
しかし、悪い噂(?)が広がるのは早いもので、日本で誰かが勝手にパブリックな
WEBサイトを立ち上げた、というのは本国の耳にも入り、私は早々に本社に呼び
出しをくらいました。

行けば当然、
「基本のデザインフォーマットはこれなので早めにこれにそろえて作り直せ」
といわれるのが関の山だと思っていたのですが、集まっていたWEB開発委員会
のメンバーは、私が部屋に入るや否やみんな席を立って拍手で迎えてくれました。
そして、
「私たちはみんなで集まって一緒に考えているところだ。お前は一人でここまで
よくやった。お前の経験をぜひシェアしてくれ。そしてこちらでも一緒に考えてくれ」
といってくれました。

今の自分のモチベーションの基本はここにあるのかもしれません。

企業コミュニケーションとしてWEBサイトを考える。

その基本姿勢が欧米企業には最初から備わっていました。
そして、その差が10年でかなり大きくなってしまったのが日本の企業のWEB
サイトだと思います。

2006年08月23日(水)更新

奇異なキャリア(その3)

1992年当時というのは、まさにインターネット前夜。仕事でパソコンは使い
はじめてはいたものの、ウィンドウズ3.1ですし、ネットワークという概念は
まだ少なかったように思います。

私が着手したのは広報で用意する会社案内(印刷物)の企画制作。そして
ほぼ平行して人事採用用の入社案内でした。米国本社よりのビジョンメッセ
ージのダウンロードにあわせて、それらを包括的に企画することでメッセージ
やトーンを統一するとともに、アートディレクションもシステム化しました。
これにより、重複がなくなるとともに全体感がはっきりと見えるようになって
きました。
これらはいわば基礎となるもので、DMや展示会、プレゼンテーションを監修
するのもとても楽になりました。
社内で部署をまたいでこれだけのディレクションをとっておくだけで、外注費
用のうち、企画に当たる部分はほとんど割愛することが出来、結果かなりの
コストダウンをすることが出来ました。

もうひとつよかったことは、部署に関わらずコミュニケーションマテリアルを作
成するときは、あいつを呼ぶとスムーズで効果的だ、という評判が出来上が
ったことです。
「Give & Given」ではないですが、常に手を差し伸べることで社内の相談が
自然に集まってくるようになりました。

私自身の人件費はもちろんタダではなく、コストセンターアロケーションという
形で各事業部に請求されます。しかしそれを置いても関与させたほうが得、
という判断をいただいたのはとてもうれしいことでした。

この時期、私の属していた広報(およびマーケットコミュニケーション)部では
IMC(統合的マーケティングコミュニケーション)という、マーケティング側から
コミュニケーションを統合化しよう、というビジネス手法の流れが起きていて、
広告代理店、PRエージェンシー、印刷業者、イベント業者など、外部のサポ
ーターを一堂に集め、お互いの役割を理解しつつ協力してこの会社のコミュ
ニケーションの効果を最大化しよう、という合宿を行っていました。

現代ではIMCもコーポレートコミュニケーションの概念の中での揺らぎだった
ととらえる節もありますが、全社的にコミュニケーションを考える素地にはな
ったと思います。

こんなことを2,3年続けていると突然社長から呼び出され、近々行われる
コンファレンスで使うプレゼンテーションの構成とデザインを見てくれ、と言わ
れたり、本社および各工場の人事部長レベルのエグゼクティブが集まる採
用戦略会議に参加してくれ、と言われたるするようになってきました。

元々僕の属していたデザインチームでは、社内のネットワークとは別途に
インターネットのコネクションを持ち、出来たばかりのモザイクナビゲーター
(最初期のブラウザー)のベータバージョンをダウンロードしてはいろいろな
学術系のサイトを覗いたりし始めているところでした。

そんな時、お世話になっていた人事の採用担当の課長さんが、
「雨宮君、うちの採用はいままで、電気系、物理系の学生が多かったんだ
けど、これからは情報系の学生が採りたいんだ。インターネットは情報系の
学生が見ているから、インターネットで採用やったら面白いんじゃないかと
思うんだけど、ホームページって作れる?」とおっしゃいました。

当時はもちろんWEB制作会社なんて存在しませんでしたし、ホームページ
を作るにも参考になるのは「Mozaic Handbook」という洋書ぐらいしかありま
せんでした。
まあ、でも何とかなうrだろう、ということで二つ返事でやることが決定しました。

ちょうど日本におけるインターネットの商用利用が開示されたばかりで、できた
ばかりのサービスプロバイダー2社(ATTJensさんとIIJさん)に来てもらい、
両者ともにほとんど第1号顧客のような状況で、採用ホームページをスタート
させていただきました。

そもそも自身がPRマネージャーだったため、「日本で最初の人材採用ホーム
ページ」としてニュースリリースを打ち、内容よりもそのニュースバリューで
望むような人材にかなりリーチできた、と記憶しています。

ちょうどインターネットマガジンも創刊されたばかりで、個別取材を受け、創刊
3号に4ページぐらいのカバレージをいただきました。今では考えられない話で
すね。

ここから、私自身の仕事は一気にインターネットに傾いていきました。
30にして「自分の仕事(ポジション)は自分で創る」を実践できたのは本当に
ラッキーでした。

つづきます。

2006年08月22日(火)更新

奇異なキャリア(その2)

私の働いていた外資系のハイテク企業は、いわゆるベンチャーではなく、
戦前より技術革新を積み重ねてきた企業でした。
ですので、いわゆる「大企業病」のような状況に陥らないよう、常に積極
的にビジネスプロセスの改善に取り組んでいました。
80年代には日本を中心にTQC(全社的品質管理)、90年代にはリエン
ジニアリングプログラムを導入しました。

リエンジニアリングは、いわば80年代に米国が指向したスペシャリスト
(専門家)指向のゆりもどしのようなもので、あまりに専門家指向が進み
すぎ業務の横のつながりが薄れ、業務プロセスが非効率になり、開発
時間がかかりすぎ、結果、競争力(特に日本に対し)を失った事への反
省と見ることも出来ます。
80年代、米国に出張すると、向こうのスタッフに自己紹介すると決まって
聞かれることがありました。それは、

「お前のメジャー(専門)はなんだ?」
というものです。
「工業デザインだ」

というと

「OK,俺はメカニカルエンジニアリングだ」

というわけです。

これはどういう意味かというと

「国家らこっちは俺の範疇なので侵食するな」

という事なのです。

その当時から終身雇用ではないわけですから、侵食されると職を失う事
につながるからです。これも横のつながりや業務の協調性を妨げる大き
な原因担っていました。

話を戻すと、そのリエンジニアリングのパイロットプログラムのメンバーに
選ばれたのはとてもラッキーでした。
なぜなら、もともとリエンジニアリング的な仕事のやり方をしていたから
です。
このプログラムでは、実際に1年ぐらいかかっていた開発プロセスを半年
ちょっとでやり終えることが出来、一定以上の成果を出すことが出来まし
た。

しかし、とてもわかりやすい(というかロジカルな、というか割り切った)
会社で、年次売り上げ成長率が5%程度の事業部にリエンジニアリング
を導入して半分強まで生産性を上げられる、という事は、3分の1の人件
費が浮く、ということで、パイロットプログラムの半年後、本格的なリストラ
が始まり、米国では実際に相当数のスタッフが解雇されました。

当時、日本側には6人のデザインスタッフがいたのですが、米国側は、
「お前らは日本の雇用なので直接クビには出来ないが、来年の人件費
予算は4人分しか出せない。あとはお前らで考えろ」と言って来たのです。

当時は日本でもバブルがはじけた最中ですので、いきなりデザイナーとし
て独立する、という事は難しい選択でした。

まあ、仮に独立するにしても「景気が悪いからといって、すべてのデザイン
会社がつぶれているわけではないだろう。こんな世の中だからこそ、儲か
っている会社もあるはずだ。そうであれば、それはどんな会社だろうか?」
と自問自答してみたのです。
そして、活躍しているデザイン会社をいくつか探し、その特徴を探ってみま
した。(私の企業調査の原点はここにあります)

すると、成功している会社は

「デザインがうまいのは当たり前。プラスその会社の強みというものを明確
に持っている」

のでした。

すなわち、
「この業務は女性マーケティングだからこの会社」
だとか、
「このプロダクトは東南アジアで生産するので東南アジアの生産調整に強
い会社」
だとか、
「本社が米国なので英語での直接折衝のできる会社」
といったことです。

では、デザイン(も、そもそもそんなに強くはないのですが)以外に自分に
強みといえるものがあるのか?と自問したとき、まだ自信を持っていえるも
のがなかったのです。

どんなものが強みとして自分に加味できるだろうか?とかんがえたとき、
コーポレートコミュニケーショングループだったのです。

このグループは自分が属していたデザインの上位に位置し、トップは上席
副社長、マネージャークラスはほとんどプロフェッショナルとして職能認知
されており、しかも職能団体も存在していました。

当時働いていた日本の子会社には、コミュニケーションを部門横断的に考
える組織や担当はおらず、チャンスと考えた私は広報部長に直談判して
「来年度の私の人件費を買ってくれないか?」と相談していました。

広報部長としても、あまりに無謀な賭け(私の働きがどのぐらいの貢献に
なるかは未知)をするわけにもいかず、
「まずPRマネージャーとして働き、その上でやるのなら認める」
というオファーをくださいました。

やりたいことがはっきりしていると、どんなに忙しくてもまったく苦にならない
から不思議です。

ここから、わたしのコーポレートコミュニケーションへのチャレンジがスタート
しました。

つづきます。

2006年08月21日(月)更新

奇異なキャリア(その1)

なぜ、今、コーポレートコミュニケーションなのか?

それを探るべく、今回から何回かに分けて、私自身の奇異な出自を
すこし紹介させていただこうと思います。

以前にも何回か書きましたが、私自身は美大のデザイン科を出てい
て、専攻は工業デザインでした。

普通の大学を出た友人が、「就職とは就社であって、実際どんな仕
事をするのかは、入社してみないとわからない」というのとは違い、
入社前から明確に「欧米向けの電卓やパソコンなど電子機器の意
匠設計」をする、というのはわかっていました。

「人生どんぶり勘定で、良いときも悪いときもある」とはよく言ったもの
で、中学・高校時代の抑圧された(おおげさですが)男子校生活と
(多少の)受験勉強の反動か、大学に入ったとたんに相当数のネジ
が飛び、4年間というもの、勉強はさらり、遊びは全力投球の毎日で
した。

そんな自分にオファーを下さったのは、当時自分が聞いたこともない
外資系のハイテク企業。「やったー!ラッキー」と入ってみたものの、
そこで待ち受けていたのはレベルの高い少数精鋭のプロ集団。
当然仕事についていけるはずもなく、気の小さい僕は 1年目で心身
症になりかけました。

本当の意味で仕事を覚えるのに、3~4年は優にかかったと思いま
す。
しかし、それ以上に大変だったのがクリエイティビティ、創造性です。
私自身は絵(表現)が下手だということ以上に、新しい発想を具体化
して提示する、という能力に欠けていました。
これってデザイナーにとっては決定的で、先輩も、この先、こいつを
どう煮たら食えるようになるのか?と業を煮やしていました。

しかし耐えながら周りを見回してみると、デザインの仕事の周りには、
色々な仕事が取り巻いていることがわかってきました。
マーケティングから、メカニカルエンジニア、ソフトウェアエンジニア、
資材調達、品質管理まで。

新しい提示は出来なくても、そのような人たちがいったい何をしていて
何を求めているのか、は、誰よりも良く理解することが出来ました。
同様に彼らのほとんどが「デザインっていったいなんだかわからない」
といっていたのでした。

「じゃあ、他者(他の業務プロセス)理解に長けたデザイナーっていう
存在価値もあるのでは?」と開き直ったとたん、異様にもてるようにな
りました。
両方の言葉がわかる、という事はインタープリーター(翻訳者)のよう
なもので、それぞれの業務が高度化していく中で、そのニーズが高ま
って来たのです。

それから数年、仕事が楽しくてしょうがなくなりました。
北米だろうと東南アジアだろうと、ヨーロッパだろうと、とにかく呼ばれ
ました。私としてはそれぞれのプロの求めるものを咀嚼し、プロジェクト
の中で最適化していくお手伝いをするだけでした。
しかし、いわゆるプロジェクトマネージャーではないのです。

こうやって単なる工業デザイナーが横道にそれていき、89年にはすでに
スクリプトベースですがFTPを使ってCADデータやデザインデータを米国
やヨーロッパとやり取りを始めていたのです。

もちろんこれは僕自身の発案やアイディアではなく、使えない僕をどう
使おうか苦慮した結果、このような道を提示してくれたマネージャー(命
の恩人)の存在があったからです。

つづきます。
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